COLUMN

新・デザイン@ランダム

第17回 人類とデザイン – その12

1950年代後半に入り、行政及び、公共デザイン振興機関が相次いで発足、
国家レベルのサポートにより幅広い分野に於けるデザイン活動が急速に進む

前講では1945年の第2次世界大戦終了後の復興過程の中で芽生えた日本に於ける
近代デザインのスタート段階に於いて多くの先輩たちの活動を紹介したが、
その活動をサポートしたのは日本の通商行政を主管していた「通商産業省(現在の経済産業省)」であった。

最新のデザイン事情を知るための工業デザイン調査団が渡米する
工業デザイン調査団.jpg
引用:多摩美術大学の歴史(高橋士郎講義ノート)
1956年夏、日本生産性本部の要請により当時千葉大学教授であった小池新二氏を団長とし、
産業工芸試験所の豊口克平氏を始め、企業、フリーランスデザイナーを含めた13名が45日間にわたり、
アートセンタースクール、イリノイ工科大学等の教育機関、シアースローバック、GE、RCA等の企業を
歴訪する強行軍であった。
当時の日米の生活レベルの差はあまりにも大きいことを実感させられた。
短期間に集中して全米をめぐるという強行軍ではあったが、参加者全員にとって大きな収穫となり
その後の日本のデザイン向上にそれぞれの立場で多大な貢献をもたらすことになった。
大阪からは当時松下電器のデザイン責任者であった真野善一氏、
後に大阪デザインセンター常務理事を長年務められた我妻栄氏も参加していた。
参加者は今でいう強烈な「カルチャーショック」を受けられたものと思えるが、
その貴重な体験はその後の我が国のデザイン振興に大きな影響を与えることとなった。

我妻栄氏_s.jpg
我妻栄氏
引用:「大阪府の産業デザインの変遷 1875-1992 第一部」より。
デザインセンター開館時(1971年)のもの。松下幸之助氏と。

外国人デザイナーの招聘事業
同じく、1956年から71年にかけて15年間の4期にわたり、外国人デザイナーの招聘事業が通産省貿易振興予算により実施され、
当時の産業工芸試験所が主管した「外国人意匠専門家等招聘計画」は、
まだ近代デザインの情報が殆ど入手できなかった日本の産業界を始め、
デザイン教育機関にとっても大きな成果を上げることになった。


第1期(1956~1960)は、まず実践的なデザイン教育で著名な「アートセンタースクール」のE.アダムス校長、
工業デザイン担当部長G.A.ジャーゲンソン氏らが招かれた。
特に有名な「ハイライト描法」は自動車のスタイリングアイデアを短時間で多様に表現する
レンダリング制作の効率化に大きな効果があったとされている。
その後、日本からの留学生も多くなり日本のデザイン発展に資することとなった。
1957年にはデザインレベルの高い高質な家具メーカーとして知られた「ハーマンミラー社」で
先端的な家具デザインを発表していたジョージ・ネルソン氏が招聘された。
1955年には北欧のクラフトデザイナー カイ・フランク氏、1959年にはイリノイ工科大学教授のJ.ダブリン氏と
著名な工業デザイナーD.チャップマン氏が招かれている。
この招聘事業は文献や資料による情報に止まらず、また、上記の視察団による情報に加えて
世界の最先端のデザインに関わるノウハウを直接体験したことによりさらに幅広く伝えられることになった。
この事業は戦後の日本のデザイン界にとって非常に効果的な事業であったと評価される。

日本のデザイン行政が先ず直面したのは国際的なデザイン盗用/模倣問題であった。
1957年に外務大臣に就任した藤山愛一郎氏(レイモンド・ローウイ氏の著書「口紅から機関車まで」の翻訳者としても知られる)が
英国を訪れた際に最初に通された部屋に展示されていたのが英国の有名ブランドの陶磁器のデザインを盗用・模倣した
膨大な量の日本製陶磁器であった。
戦後の日本にとって有力な外貨獲得手段であった輸出品に対し突き付けられた厳しい告発であり、
日本政府にとっても厳しい対応が求められることになった。
当時の日本は海外の市場情報が不足していたことに加え、いわゆる「バイヤー」に安易に従って指示のままに
デザインの盗用・模倣を行っていたことが大きい原因であった。
また機能のみではなくデザインが大きな商品価値を持つことに対する理解が全く無かったことも挙げられる。
しかし、皮肉なことに現在では逆に日本の商品が多くの国々から「コピー商品」により盗用被害を受けている現状も存在する。

通商産業省に日本初のカタカナ名称の「デザイン課」が誕生した。
この様な状況を踏まえ、世界市場を開拓するためには「JAPAN ORIGINAL DESIGN」を創出することが急務となり、
1958年、日本のデザイン行政を担当する「デザイン課」が新設されることになった。
これは日本の行政機関でカタカナ名義の名称が初めて使われた事例であった。
初代の課長として後に大阪万博の事務局長、大阪デザインセンターの理事長を歴任された「新井真一氏」が就任されることとなった。

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新井真一氏
引用:「情報 DESIGN INFORMATION by osaka design center 87 JULY 1991」より

新井氏は後日「私は特にデザインについての見識があった訳ではなかったが、
省内では油彩画を書くことで知られていたことが大きな理由であったのでは無いかと思っている」と謙虚に話されている。
しかし、日本の通商政策を所管する通商産業省がデザイン行政に本格的に取り組んだことが全国的に広がり、
東京、大阪等にデザイン振興機関が発足することになり、デザイン行政が地方レベルにまで浸透することにより
日本のデザインレベル向上に資することになった。

以上、次稿では大阪デザインセンターの発足から現在に至る足跡を辿ることとしたい。

坂下 清 
(一財)大阪デザインセンター アドバイザー

大阪生まれ。1957年東京芸術大学美術学部図案科卒業。同年早川電気工業(現シャープ(株))入社。さまざまな家電製品のデザインを行う一方、全社CI計画を手がける。
取締役、常務取締役、顧問を経て1997年退任。

Corporate Design Management研究をライフワークとし、大学、関係団体、デザイン研究機関にて活動を継続。

2000年~2012年(一財)大阪デザインセンター理事長。

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