第13回 人類とデザイン – その8
インダストリアルデザインはハリウッドムービーと並んでアメリカを代表する2大産業であり、
アメリカン・ドリームの象徴であると考えています。
前稿で述べた通りインダストリアルデザイナーの活動が始まったのが1920年代後半、
一方、ハリウッドに最初の映画スタジオが出来たのは1911年、
そして今も名所となっているHOLLYWOODのサインは1923年
(当初はHOLLYWOODLANDだったが1978年に現在の形になった)であり、
両者ともに第1次大戦終了後の景気回復に伴って急速な発展を遂げたものと考えられます。
HOLLYWOOD サイン、ローウィデザインによる「US Airforce One」アメリカ大統領専用機
1891年、T.エジソンが「キネトスコープ」を発明、1893年に「シカゴ万国博」に出展され、
翌94年にはニューヨークのブロードウェイに世界初の映画館(キネトスコープ・パーラー)が誕生し、大衆の人気を博した。
その後2年の間に全米の主要都市に進出することとなりました。
しかし、撮影が行われていたニューヨーク近辺では撮影に必要な晴天に恵まれる機会が少ないことから
1911年に晴天の多いカリフォルニア地域のハリウッドに最初のスタジオが作られ、現在に続くアメリカ映画の出発点となりました。
続いて現在に繋がるフィルムをライトで投射する、現在と同様の方式となり、映画館で上映することにより
多くの観衆を集める大衆娯楽として定着することとなりました。
当初のぎごちない動きで音声のない状態から徐々にスムースな動きとなり、1927年には音声が入った「トーキー映画」に進化しました。
1930年代にはカラー化が実現し、「白雪姫(1937年)」「オズの魔法使い(1939年)」「風と共に去りぬ(同年)」等の大ヒット映画が続き
アメリカ映画の全盛期を迎えることとなりました。
さらにシネマスコープに代表される横長の大画面化が進み、最近では特殊撮影技術、コンピュータグラフィックスの進化により
多様な表現が可能となり娯楽性が高くなったこと、テレビ放送による再視聴も含めて映画産業は発展を続けています。
1937年、ローウィによるペンシルベニア鉄道の蒸気機関車”S-1のオリジナルスケッチ、
1939年ニューヨーク万国博に出展され大きな話題になった世界初の流線型を採用した蒸気機関車をバックにしたローウィ、
ローウィを一躍有名にした「ラッキーストライクシガレット」のパッケージデザイン、
意味のない流線型と批判を受けた「卓上型鉛筆削り」
インダストリアルデザインという新たな職能を通じてアメリカンドリームを実現した巨人”レイモンド・ローウィ”
ローウィは1893年パリで典型的なブルジョア家庭の3男として生まれました。
建築、機械工学の基本を学び、1929年秋、26歳の時にすでにアメリカで医者として成功していた長兄を頼ってアメリカに渡りました。
当初は言葉のハンディキャップはありましたが生来の優れた社交性により、
すでに渡米時の航海中にも多くの知己を作りその後のビジネスにも繋がったと言われています。
ローウィのインダストリアルデザインの最初の仕事については明確ではありませんが、
1926年に「ハップモビール自動車」の外観スタイリングであったとされています。
しかし、一般的に認知されているのは1929年にシグムンド・ゲステットナーがデザインを依頼した「ゲステットナーコピー機」
一説ではオフィスで使用される小型印刷機ともされていますが、ローウィのデザイン手法の原点となりました。
私の個人的な認識ですが、ローウィのデザイン手法には重要な3つの要素があると考えています。
1. Stream Lined Shape:流線型
1903年に初めて空を飛んだライト兄弟の飛行機はおよそ空気抵抗や、流体力学とは全く縁のない形でしたが
1930年代にはエンジンも大型化され空気抵抗を減らすためのスムースな形態に代わりつつありました。
また、地上を走る自動車も初期の馬車の形体をとどめた箱型から飛行機に近いスムースな形態を求めるようになっていました。
その代表的なデザインが1937年にペンシルベニア鉄道のためにデザインした蒸気機関車S-1でした。
それまでの蒸気機関車の象徴でもあった筒状の煙突は完全にカバーされ、
車体下部の巨大な動輪やピストン・シリンダー部分もほとんど目立たなくデザインされていました。
さすがに卓上鉛筆削りにまで流線型デザインしたことについては
「Flying Pencil Sharpener・空飛ぶ鉛筆削り」として批判の対象になったこともありました。
2. Covering Design:カバリングデザイン
1929年、シグムンド・ゲステットナーがローウィ事務所を訪れ、複写機のリ・デザインを5日間で仕上げるよう依頼しました。
ローウィはそれに応えるため現行商品をベースにし、機構部分が露出している部分を内部に収めて美しくカバーする手法を取りました。
時間的な制約を考慮し、当時自動車メーカーが試作モデルの製作に使っていたクレイ(油粘土)を使って
見事な複写機のデザインを完成し、ゲステットナーの期待に応えました。
ローウィは単にカバーするのではなく、オフィスで働く女性たちが衣服や手を汚すことが無いことを重点的に考慮したと話しています。
この手法は前記の流線型の蒸気機関車や自動車のデザインにも採用されています。
3. MAYA段階
Most Advanced Yet Acceptable。
最も先進的であるが、受容可能なレベルという意味を表した言葉であり、多くの消費者の先進的なデザインの受容度には限界がある、
すなわち行き過ぎたデザインは受け入れられないことを意味する言葉であり、デザイナーの独善的な主張を戒めた言葉だと言えます。
ローウィについてはいわゆる「毀誉褒貶」すなわち機能性を重視する
“SIMPLE IS BEST” 機能主義と相反するスタイリング優先のデザインとしての批判もありますが、
多くの消費者の生活を豊かにし、大恐慌以降のアメリカ経済を急速な回復に導いた功績も評価されるものと考えられます。
・同時代に活躍したインダストリアルデザイナー達
産業の発展や新しい消費者層の増加により生活用品のデザインに対する関心も高まりデザイナーの活躍の場も拡大しました。
その数人を紹介します。
・ラッセル・ライト
1935年、テーブル、椅子、キャビネットからなる「アメリカン・モダンシリーズ」を発表、
装飾を排したシンプルな直線構成により現代にも通ずるデザインとして評価されています。
・ハーリー・アール
1928年、GM(ジェネラルモーターズ)のアート&カラー部門の責任者として
シボレー、ビュイック、キャディラック等、多くの自動車のスタイリングを統括。
1938年には300名のスタッフを擁しボディのスタイリングのみならず内装や多様なカラーに至るマネジメントを実行していました。
・ノーマン・ベル・ゲデス
独創的な天才肌のデザイナーとして活躍したが製品に結びつくものは少なかった。
しかし1939年のNY万国博のGMの展示場のデザインでは彼の持つ未来的なビジョンが高い評価を受けました。
以上。次稿では、その後の世界のデザインの展開について述べたいと考えています。
(一財)大阪デザインセンター アドバイザー
大阪生まれ。1957年東京芸術大学美術学部図案科卒業。同年早川電気工業(現シャープ(株))入社。さまざまな家電製品のデザインを行う一方、全社CI計画を手がける。
取締役、常務取締役、顧問を経て1997年退任。
Corporate Design Management研究をライフワークとし、大学、関係団体、デザイン研究機関にて活動を継続。
2000年~2012年(一財)大阪デザインセンター理事長。