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第11回 人類とデザイン – その6

20世紀、産業化社会の人間の暮らしを美しく、豊かにした”インダストリアルデザイン”の誕生 前項で記した「アーツアンドクラフツ運動」「アールヌーボー」「アールデコ」 「ウイーン工房」「A. ガウディ」等の新たなデザイン運動を紹介しましたが、 これらの運動に共通する基本的な考え方は近代につながる産業化の流れの中で粗悪な機械生産品に対するアンチテーゼとして、 中世からの伝統の技を受け継いだ職人による良質の製品を推奨することを基本としていました。 しかし、文明の趨勢は必然的に工業化、機械化へと進んでいくこととなり、 生活に関わる多くのものが機械により均質生産されることになりましたが、 優れた職人による手工芸品と比較して、品質やデザインについては決して優れているとは言えない状況でした。 1907年 ドイツ工作連盟・D.W.B 結成(経営者、資本家も参画した画期的なデザイン活動) ヨーロッパ大陸で工業化が進んでいたドイツに於いて、機械生産を肯定した生産品の品質、使用性、 そして機能的な美しさを求めるデザイン運動を推進する「ドイツ工作連盟・D.W.B」が結成されました。 ヘルマン・ムテジウス(1861~1927)をリーダーとし、芸術家、建築家のみならず経営者、資本家が参画するという総合的な活動であり、 その後のヨーロッパ各国のデザイン運動にも大きな影響を与えたものと評価されています。 この活動にはその後世界で初めての総合デザイン教育機関とされる「BAUHAUS」の初代学長であったW.グロピウスも参画していました。 運動のリーダーであったムテジウスは明治時代に来日、建築技師として従事(1887~1891年、現存する法務省赤煉瓦棟はその実施例)、 その後、ロンドンのドイツ大使館に勤務した際に前記の「アーツアンドクラフツ運動」に大きな影響を受けたとされています。 しかし、モリスと違い、機械生産を積極的に肯定したことがその後の近代デザイン運動につながることとなったと考えられます。 *AEGの工場、ケトル、ランプ等のデザイン事例、AEGの工場 1919年 世界初のデザイン総合教育機関「BAUHAUS」誕生(その後の世界のデザイン教育に影響を与えた) 第1次世界大戦後にドイツ革命(1918.11.3~1919.8.11)が勃発、ドイツ帝国が崩壊、 当時のヨーロッパでは最も民主的国家とされた「ワイマール共和国」が発足しました。 1919年7月31日に新憲法が制定され、穏健な社会改良政策を進めたものの、 大戦後の賠償金など過酷な負担を吸収できず、激しいインフレによる経済の破綻を招くことになり、 結果として左翼勢力の共産党と国家主義運動を進めるナチズムによる混乱が吸収不能となりわずか14年で崩壊し、 ヒトラーの独裁によるナチスドイツ国家が誕生することとなりました。 このワイマール共和国に於いてその後の世界のデザイン教育に大きな影響を与えた「BAUHAUS」が誕生しました。 1902年、当時のドイツ帝国ワイマール大公ヴィルヘルム・エルンストは、 前述のアールヌーボーの主導者であったアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデをワイマールに招聘しました。 1902年ヴェルデは私設の「工芸ゼミナール」を設立、1908年「大公立美術工芸学校」に発展し、 1911年にはヴェルデ設計による工芸学校の校舎が建築されデザイン教育の発祥とされています。 (私の母校でもある大阪市立工芸学校は1922年に設立、1924年に建設された現校舎はこの建築に影響を受けたとされています) しかし、アールヌーボーの基本思想である手工芸重視の姿勢が、 工業生産を肯定した前述のドイツ工作連盟の主導者ヘルマン・ムテジュウスと衝突し、 1915年にワイマールを去ることになり、後任として建築家のヴァルター・グロピウスが選任されることとなりました。 *BAUHAUS ワイマール校舎、デッサウ校舎 1919年ワイマール共和国発足、当時としては画期的とされた民主的な憲法が制定されました。 その年に工芸学校と芸術学校が合併され国立バウハウス・ワイマールが設立され、 W. グロピウスが初代校長に就任し、近代デザイン教育がスタートすることになり、 そして1925年デッサウにグロピウス設計による先進的なカーテンウォール工法 (構造体が内部にあり表面のガラス材がカーテン状に構成されている建築工法)の代表作としても知られる校舎が建設され 世界初の体系的なデザイン教育が行われることになりました。 当時の教授陣の中には後に米国に移って多くの名建築を設計したミース・ファン・デル・ローエ、抽象画家のパウル・クレー、 ワシリーカンディンスキー、ピエ・モンドリアン、或いはクロームメッキのパイプ椅子のデザインで知られるマルセル・ブロイヤー等々、 著名な芸術家たちが運営に関わり近代デザイン教育の先頭を切ったと言えます。 しかし、急激な時代の変化により1928年にグロピウスが退任、ハンネス・マイヤーが校長に就任しましたが 強硬な共産主義者であったため急速に勢力を拡大してきたナチス勢力に敵視され退任せざるを得なくなりました。 その後、前述のミース・ファン・デル・ローエが校長を継ぎましたがその自由な教育が問題となったのか、 一旦ベルリンに私立学校として移転され、1933年に閉鎖されることになりました。 世界初の総合的なデザイン教育が中断されることになりましたが、 その成果はアメリカを始め世界各国に移転され大きな影響を残したものと考えられます。 日本からも東京美術学校助教授の水谷武彦氏、建築家の山脇巌、道子夫妻が知られています。 その他、多くのデザイン教育関係者による研究も進み、昭和初期から日本のデザイン教育にも大きな影響を与えることになりました。 *トーネットの曲木椅子 続いて、アメリカにおいて1930年代の大不況を脱却する大きな役割を果たした「インダストリアルデザイン」について詳しくお伝えする前に、 近代デザインの系譜の中で異彩を放っている世界の市場で認められた家具「ウインザーチェア」について詳しくお伝えしたいと思います。 一般的に家具といえば椅子に限らずキャビネット、テーブル、ソフア、ベッド等々多くのアイテムがありますが、 この「ウインザーチェア」は曲げ木を使った椅子のみに限定された商品でありながら 日本を含め世界中に普及した特異な商品であり他に類を見ない商品だと言えます。 1830年頃からドイツ ラインラント生まれのミカエル・トーネットは「ブナ」の木を棒状に加工し、 高圧の蒸気で自在の曲線に折り曲げる実験を始めていました。 初期に作られたいくつかの椅子が1841年、コブレンツで開かれた展覧会で当時のオーストリア皇太子クレメンス・メッテルニヒの目に留まり、 トーネットはウイーンの王室に招聘されそこで製法特許を取得し、1853年には会社を設立した。 代表的なNo.14という椅子はわずか6個のパーツで成り立っており、廉価な材料費、ノックダウン可能で 組み立て工数も少なく、量産が可能であったことから生産コストも安く、ウイーンを始めヨーロッパ、そして、世界市場に拡大することになりました。 日本でも大都市のビアホール等の大型飲食店で使われ、私の小学生時代(1940年頃)でも 大型の飲食店で使われていたことを鮮明に記憶しています。 しかし、この製品はいわゆる工業化の進展に伴う合理的な大量生産方式に適合したインダストリアルデザインとは明らかに系譜が違っており、 近代デザイン史の中で異端の存在であったとも言えます。 残念ながら正確な記録は残っていませんが、単品の家具としては世界最高の数量が生産されたものと考えられています。
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