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どんだけ面白くできるか。 シマダタモツさん【前編】

※この記事は、noteのマガジン「Narratives [先輩かく語りき]」でも配信中です。先輩デザイナーたちのリアルボイスは、同じくnoteの「デザイナー、今こんな感じです。」でも発信中! ぜひ、チェックしてください。

 

大阪・関西万博の公式ロゴマークデザイン公募で最優秀賞を射止め、大きな注目を集めるシマダタモツさん。このインタビューでは、独創的なデザインで話題をさらったシマダさんのお話を前編・後編に分けてお届けします。前編は、万博ロゴの創作過程、修業時代を振り返ってのエピソードです。

 

シマダさん1

[ Profile ]
1965年、大阪生まれ。松江寛之デザイン事務所などを経て、1992年に嶋田デザイン事務所として独立。2004年に有限会社シマダデザインを設立。これまで企業の広告・販促・VIをはじめ公共イベントや店舗など、さまざまな分野の共イベント、店舗など、さまざまな分野のデザインを手がける。2009年ニューヨークADC賞をはじめ、国内外で受賞歴多数。2020年にはTEAM INARIの代表者として、2025年大阪・関西万博ロゴマークのコンペティションにおいて最優秀賞に選ばれる。

 

予定調和でないものに決まってほしい


大阪デザインセンター(以下、ODC) 万博のロゴ応募は「TEAM INARI」としての参加でした。

シマダさん ここ(シマダデザイン)で通常のデザイン業務をやってるうちのスタッフと、同じフロアにいるコピーライターとイラストレーターとで、普段の仕事の延長線上で応募しました。元々、出すつもりやなくて。別のコンペで落ちてしまい、ショックを受けていて、もうコンペは嫌だというぐらいな感じやったんですけど…(笑い)。でまぁ、万博のときは60歳やし、若いコがやったらええんちゃうかなという気持ちで、自分の名前は出さずに、「TEAM INARI」として応募しました。

3方向のデザインで提出したのですが、凄いエッジの効いた審査員さんばかりでしたので、どういうものを求めてはるか全くわからなかった。でも、予定調和でないものが決まればいいなぁと。

ODC 受賞が決まったときは、涙を流されていましたね。

シマダさん 感極まってしまって。発表会場は騒げる雰囲気ではなかったけれども、「よっしゃ!」と言ってしまった。会場で最終選考に残った人を見たら、70年の万博を知ってるのは、僕しかおらんかったんですよ。全員、20代後半ぐらいとか、めちゃ若い子ばっかりで。自分の息子ぐらいな感じで、ほとんど引率の先生みたいな感じでした(笑い)。これが残るって、なかなか面白いなぁと思ってて。未だに信じられないです。

ODC 発表後、すぐにネット上は大喜利状態となり、いろいろなパロディが出てきました。

シマダさん スピード感に驚いた。受賞が決まった夜にチームで食事をしていたら、次々とネットに上がってきて。ロゴマークでここまで話題になるというのは、経験したことがない。気持ち悪いとか、カワイイとか、いろいろ言ってもらって心地良かったです。いずれにしても、見てくれてるということなんで。

ODC 予定調和ではないところに、人々が惹きつけられてるのでしょうか。

シマダさん 毒というか。それが、モノの個性になっているというか。そういうのは意識しながら、作ってたりはしたんですけど。何かをちょっと足したことで、個性になる。デザインは、基本的には引き算なんですが、何かアクセントをつけるだけで、全然、形も変わってくる。それがオリジナリティになっていく気がします。丸とか三角とか四角とかは世の中にすでにあるもので、それをどう組み合わせるか、どう配列するかによって、新しいカタチになっていくわけで。

ODC 絶妙に不安定な感じです。

シマダさん それが「生き物」感につながっていて。「動」な世界になっているかと。

ODC 一般的に、ロゴマークにはお行儀の良いものが多いような…。

シマダさん 万博は大きなお祭りだと思っているので、みんながワイワイ動いている感じ、動の部分を表現したいと思いました。バランスはスゴイ考えました。考える過程でそぎ落としていったり…。ブラッシュアップは、とことん、納得するまでやるタイプなんです。一回作って、次の朝見て、と。ずっと集中していると凝り固まってしまうので、一回外してみて、また見るとか、そういう作業を結構やります。

―と、ここで制作過程を順に披露してくれました。

 

シマダさん3

 

えっらい気持ち悪いもんが出来てしまった

シマダさん とりあえず丸を置いてみようというとこから始めて。そして、個性を持たせていこうと。キーワードとして「細胞」というのが出てきたので、細胞の核を入れてみて。そしたら、えっらい気持ち悪いもんが出来てしまった(笑い)。そこからまた考えて…。

最初はモノトーンで、というスタイルでやっています。フォルムが分かりやすいので。丸を並べていくうちに、真ん中のスペースが大阪の形に似てるなと。(細胞以外に)もうひとつギミックがあった方がいいなと思っていたので、これ(大阪のようにする)で形を整えていきました。いのち感、躍動感があるように。会場が島というのもあり、水の都大阪というのもあり、青だけのバージョンも作ってみたけども、なんか静かな感じになったので、赤に。最初は核(目)を全部に入れていましたが、70年万博のシンボルマークを受け継ごうと、5つに絞りました。

ODC 制作期間は?

シマダさん 公募期間は1カ月しかなかったので、突貫で。最後の詰めに時間がかかりました。ぎりぎりまで考えて。データを送る締め切りは夕方の5時。「ぎりぎりに送信しよう」と。ブラッシュアップする際は、配置のバランスについて最後の最後まで悩みました。

普通、こういうマークであれば、カラーバリエーションもあると思うけれども、これについては、色でホンマに激しく印象が変わる。できるだけ、バックは白で、というマニュアル(※)にしています。基本的にはホワイトスペースを活かすということで。
※取材時は、ロゴマークの使用マニュアルを各国語版で作成中とのことでした。

 

手作業の基礎をたたき込まれた 

ODC デザイナーになったばかりの頃のことを聞かせてください。

シマダさん デザイン学校に入ったことは入ったが、1学期で辞めてしまいまして。これはなかなか難しい業界やなと。たまたま母親が喫茶店をやっていて、お客さんにデザイナーさんとかが多くて。隣は写真スタジオで、その関係の方もよく出入りされていたんです。その一人の方の紹介で、師匠(松江寛之さん)のところへ。カバン持ちみたいなことを3年ぐらいしました。師匠は企画もされてまして、いろんなアーティストやら占い師やらが来られて…。ニューヨークのプッシュ・ピン・スタジオの方が来られたりも。

その頃はコンピューターもなく、手作業じゃないですか。それが面白くて。先生の横にずっとついてないといけないし、大変なんですけど、現場はホンマに面白いなと。

昔は文字を切って、(字間を)詰めたり開いたりみたいなことをする、版下(※)のフィニッシュマンがおったんです。プロフェッショナルが。その人にチェックしてもらうと、ここ詰まってるで、とか教えてくれるわけですよ。それで直すと。基礎をたたきこまれました。すごい勉強になりました。※アナログ製版で使われる、印刷の元になる原稿。紙の台紙に写植文字や図版などを張り付けて制作していた。

ODC 今なら、Macがやってくれます。

シマダさん でも、その(手作業の)感覚がなければ、Mac使って、ただ単に流し込むだけで出してしまうことになる。僕はやっぱり詰めたり、バランス変えたりしますから。その感覚を教えることは難しい。昔は緊張感がありました。今とは全然、環境が違っていた。文字ひとつ、「。」を詰めていくのも。

―その後、またまた紹介されて流通関係のプロダクションへ。
シマダさん 流通関係って、1年ぐらいやると、仕事のサイクルがわかってくる。1年目は「ド」チラシとかをやってました。べたべたの。そんな中でも、今までやってない2色刷りを一回やってみようとか、工夫をしたり、面白くしたり。こんなチラシデザインなんか、やりたくないとか思うかもしれないけれども、そうではなくて、どんだけ面白くしていけるかっていうのがこの世界には大事なんちゃうかな。

ODC クライアント・ワークは制限があるから、精いっぱいできるという?

シマダさん そうやと思います。それぞれのタイミングでいっぱい経験ができたので、いろんな良い勉強ができました。

ODC 下積み時代は楽しかったですか?

シマダさん ツライと思ったらツライ。ツライことしか考えなくなる。僕の場合は、先生もええ人やったんで、ツライことはなかった。ま、変わった人でしたけども。いかに、このおっさんを好きになろうかと考えて(笑い)。好きなところを探すようにして。仕事自体もそう。与えられたものを、いかに楽しくしていけるかが大事です。

 

<インタビューは後編に続きます>

 

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